震災とその後について①

東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

誠に長い期間ブログを休止しておりましたが、実は私の実家および親族も地震と津波でかなりの被害を受けました。

教員にとって3月・4月と言えば、学期末・年度開始の多忙な時期ですが、あの3・11以降今年は例年とは全く異なった非常時対応となり、今やっと震災とそれ以降のことを書く気持ち、余裕を持つことができました。

現在私自身は愛媛県松山市に住んでおりますが、もともとの出身は宮城県です。親族の多くは仙台市におり、実家は隣の名取市、というところにあります。ともに津波と地震で深刻な被害を受けた地域であることは、すでにご承知の通りです。幸いにして私の実家は内陸の丘陵地帯にあって被害といえば屋根の瓦の一部がずり落ちたことと、家具や家電の一部が壊れ、亡き父(学芸員・版画家)の作品が倉庫の中で崩れた程度、でした(現在も実家はそのままの状態です)。

実家に一人暮らしだった母は、不幸中の幸いか、以前から障害があり震災当日も体調を崩し近くの県立病院に入院中でした。そのため、震災による当面の危険からは比較的保護された状況にありました。ただ、それでも病院の食糧・薬不足とボイラー・暖房の停止、震災で運営不能となった他病院からの患者の受け入れなどで、母のいた病院も震災後数週間は非常に深刻な状況にありました。

また、震災後私たち親族の中でも最もその安否が懸念されたのが、仙台市若林区荒浜に住んでいた伯父・伯母・いとこ家族でした。3世代同居の大家族で、また荒浜自体私たちの父方親族の菩提寺があるような、とても縁の深い土地でした(よく荒浜の海岸で海水浴をしたり、いとこと近くの貞山掘りで魚釣りをしたりしたものです)。

荒浜は海岸近くの集落で、テレビでなんどもその地域が津波に飲み込まれるシーンが放映されました。実は、地震の起きた3月11日当日の夜、一度だけ伯母の携帯電話とつながり、近所の小学校に避難して家族はなんとか助かったという連絡を受けていたのですが、その際の伯母の非常に切迫した様子、全て何もかも津波に流されたという言葉、そしてその後数日連絡が全く繋がらないという状況から、本当にあの後無事だったのかどうか、まさに気が気ではない状態でした。結局、荒浜の親族の方々は、奇跡的に全員助かりました。

後日いとこから聞いた話では、津波による水没で周囲から完全孤立した小学校から夜明け前に小さな子供から自衛隊のヘリで内陸の避難所に輸送されたそうです。子供を夜明け前に輸送した理由は、なるべく早く、というのもあったけど、日中だと被害の状況があまりにむごいことが目に見えてしまうので・・・という配慮だと聞きました。実際、夜が明けて日中になるとまさに言葉にならない状況があったそうです。犠牲となった方々には本当に心からご冥福をお祈り申し上げます。

私の伯母の旦那(つまり義伯父)は荒浜東の町内会長で、自転車で怒鳴りながら、津波が押し寄せるぎりぎりまで「津波がくるぞー」といって近所をくまなく回ったそうです。結局、最後に小学校(荒浜小)へと高齢の方々とともに逃げて入ったとき、腰まで水に浸かったそうです。なんとか3階まで登ったところで教室の中に机があって、それがぎりぎり水からでる高さだったので、皆で机を集めて、その上に登って津波をやり過ごした、とのことでした。もう少しでも津波が高ければダメだったかもしれないし、教室の外の廊下は川のように水が流れていたので、そこにいたらやばかった、本当に助かったのは運が良かったんだな、と語っていました。

荒浜小に避難した方々は、ヘリによる緊急輸送の後、健康な人は津波が十分引いてから安全な内陸部の避難所に向けて、自衛隊の方を先頭に自ら歩いて移動したそうです。3月の冷たい海水が満ちた道なき水没地帯を約4キロは歩いた、といとこは言っていました。それだけ長い間冷たい水を歩いていると、段々足の感覚が麻痺してきて、今足が地についているのかどうかもわからなくなるそうです。そのような状態で何か危険なものを踏みぬいたりしないように皆で助け合いながら慎重に進んで、水没地帯を4キロ、それを抜けてから10数キロは歩いたそうです。本当に想像以上に大変な状況を、よく無事でいてくれたなあ、と今になっても思います。

さて、3・11以後、状況が明らかになるにつれ、愛媛・松山にいる私としては何ができるのだろうか?こんな時に手をこまねいていていいのか?
数日間悩みました。
そして、私が出した答えは、

①    とにかく現地入りして被災した親族含む現地の人々に支援物資を届ける
②    母を松山の病院に転院、つまりつれて戻って、しばらく松山に疎開させる

でした。

当然、被災地に向かう道はまだ回復していない頃です。加えて被災地およびその周辺県および首都圏までが、極度のガソリン不足でした。愛媛から向かうにしても、それ相応の周到な手段・準備、そして覚悟を持たないと途中で二重被災者となって周りに迷惑をかけかねません。

なので、まずはしっかりとした「足」、すなわち‘車とガソリン’を準備すること。そしてその「足」は、被災地の親族にそのまま渡してくればいい。車も含め全てが流されたのだから、今必要な支援物資は‘車とガソリン’まずこれだろう。と思ったわけです。

というわけで、仙台の親族に(すべてのことが無事に運べば)3/22頃に車で現地入りすることを伝えると同時に、いつもベンツでお世話になっているルノー松山の森さんに相談して、仙台までたどり着くための「足」として、中古の‘箱バン’ダイハツ・ハイジェットを購入し、急遽車体を整備して頂きました。

たった5日間で、全ての必要な車体整備から、ガソリン缶や荷物を大量に載せるためのルーフキャリアまで付けてもらいました。さらに箱バンの荷室に入る50ccのカブと灯油ストーブもいただきました(感謝!)。被災地では燃費のいい原付カブは足として非常に重宝されるでしょう。

いつもいつも無謀な注文ばかり申し上げ大変なご苦労をおかけしていると思うのですが、ルノー松山の皆さまの理解と力なしには、このような緊急の旅立ち、被災地支援を企画することはできなかったと思います。本当にありがとうございます。

そして私の職場である愛媛大学沿岸環境科学研究センターの教職員の方々、学生さん、および日頃からお付き合いのある実験器具・試薬販売会社の方々からは、お米や非常食、味噌・しょうゆ、カセットコンロとガスカートリッジ、その他ありとあらゆる必須日常品を大量にいただきました。また、研究室の学生さんや秘書さんに大量の物資の仕分けや荷造り、積載作業を手伝ってもらいました。

一人一人のお名前を挙げることができず恐縮ですが、この場をおかりして深く御礼を申し上げます。誠にありがとうございました。

被災地入りにあたっては、現地宮城県仙台市のNPO宮城県復興支援センター(http://www.gakuwarinet.com/ganbaro/)と連絡をとり、公的な支援者・緊急車両として登録し、現地入りしました。新潟経由で被災地に向かう際に同NPO団体の支援者である自民党元衆議院議員の栗原博久様と平和党関係者の皆様に大変お世話になりました。ここに厚く御礼申し上げます。

結果として、震災約10日後に現地入りすることができた私の被災地支援と母の転院・疎開は、関係者皆さまの厚いご支援・ご協力により無事成功いたしました。

長くなりましたのでその詳細と震災後の経過についてはまた改めて記事にしたいと思います。

このような状況で、しばらくストップしていた「天ルネ」の活動ですが、これからまた本腰を据えて再開したいと思っていますので、よろしくお願いいたします。

投稿日 : 2011/08/14 | カテゴリー : 近況/その他, 震災 |

新着情報